Otsu PARCO and Dangers16 ~「白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津」の報告 [報告]

わしが反日ハンター・神功正毅ぢゃ。
「白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津」開催のお知らせ
で伝えたとおり、平成25年10月5日(土) 16:00~17:00に大津パルコ前において「白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津」を行った。
その報告をしよう。
これが街宣の映像ぢゃ。
(1/3)白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津
http://www.youtube.com/watch?v=K3T9R-aS--I



(2/3)白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津
http://www.youtube.com/watch?v=JjeO-BKr7e0



(3/3)白村江の戦いから1350年 特亜の対日侵略を阻止せよ! 街宣 in 大津
http://www.youtube.com/watch?v=Pq6yZ-j595I




この日は当会の関西地区担当副会長の三代揃い踏みとなった。
川東大了(平成22年1月12日~平成24年3月31日)
八木康弘(平成24年4月1日~平成25年3月25日)
神功正毅(平成25年3月26日~)
このような光景はめったに見られるものではないので参加された方は幸運ぢゃ。

今から1350年前のこの日、新羅と唐の連合軍に滅ぼされた百済を回復しようと天智天皇が軍を派遣したが、「白村江の戦い」で敗北した。

「白村江の戦い」について簡単に説明しよう。
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡した。
百済滅亡の後、百済の遺臣は百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
661年5月、第一派倭国軍が出発。船舶170余隻、兵力1万余人だった。
662年3月、主力部隊である第二派倭国軍が出発。
663年(天智2年)、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は水軍7,000名を派遣した。唐・新羅軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。
倭国・百済連合軍は多数の船を持っていたにもかかわらず、火計、干潮の時間差などにより、663年唐・新羅水軍に大敗した。
同時に陸上でも、唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上した。
白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。

天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。

白村江の戦いでの敗北は、日本史上でも第二次世界大戦後のアメリカ合衆国による占領をのぞけば、日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であった。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、朝鮮半島での権益を失い、国防体制・政治体制の変革がなされ、急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令法令群が策定、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。



我々憂国派がこのような古代の戦争の話をするのは異例のことぢゃが、天智天皇が百済復興のために起こしたこの「白村江の戦い」、全くの無駄ぢゃろうか?

いいえ、これは無駄な戦いなどではない!

新羅と唐の連合軍に対して百済回復の義戦ぢゃ。

その後の日本でも弱き者を助ける義戦がいくつか行われておる。

上杉謙信は武田信玄や北条氏の侵略に苦しめられている小大名を救うためになんども戦った。

また、山中鹿之助は毛利元就に領地を奪われた尼子氏の領地を奪還する為に戦った。

戊辰戦争では「八重の桜」でも描かれたように会津藩が薩長軍に征伐されるのを救うために東北地方の諸藩が奥羽列藩同盟を結成して戦った。

近代の戦争に例えるなら、ナチスドイツに征服された国々を解放し、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーの王室を祖国に帰還させるために連合軍が戦ったノルマンディー上陸作戦と同じぢゃ。
また、湾岸戦争でもイラクに占領されたクウェートを解放するために多国籍軍が編成され、イラクと戦った。
ただノルマンディー上陸作戦、湾岸戦争では連合軍、多国籍軍が勝ってそれぞれの王室が祖国に帰還でき、「白村江の戦い」では倭国・百済の軍が敗れて百済王家が祖国に帰還できなかった、それだけの違いでぢゃ。

百済を回復しようと天智天皇が試みた「白村江の戦い」が敗北に終わったからと言ってその行いが責められるぢゃろうか?

百済回復の義戦を戦い、死んでいった兵士への哀悼の意を1350年たった今も忘れてはならん。

我々の祖先はその後も元寇、幕末の馬関戦争、薩英戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争など外国の侵略と戦ってきた。

大東亜戦争で日本軍が敗れ、数多くの人命と北方領土、竹島、といった領土が奪われてきた。

尖閣諸島もシナの侵略に晒されておる。

我々の仲間も北方領土、竹島の奪還、尖閣諸島の防衛、拉致被害者の奪還を訴えておる。

我々も百済を回復しようと試みた天智天皇のように、元寇、幕末の馬関戦争、薩英戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争など外国の侵略と戦ってきた我々の祖先のように祖国防衛のために立ち上がろうではないか!


街宣終了後、「八木筆頭副会長を囲む会」を行った。


2013-10-12 14:47  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

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